AYAKASHI

AYAKASHI


 深い悲しみを抱いたまま、少年はじっと眠っていた。傷ついた心は灼熱の赤い川となって山を下り、生きとし生けるもののすべてを焼いて、記憶の聖地をそこに築いた。悲しみの咆哮は満月を越え、新月の夜にようやく止まった。
 灼熱の一夜は千の夜にも勝り、千の悲しみは万の夜にも通じていた。凍てつく壁を貫いて空しい風が吹き抜ける。月夜の風はそこはかとない愛の調べを語り、彼の頑なな心に時の砂と共に染み込んだ。

 それからまた、気が遠くなる程の時間が過ぎて、そこに命が芽生えた。枝を伸ばし、葉を茂らせて緑は、彼の裾野に異界を編んだ。
――そなたが欲しい
薄桃色の花の香をそっと風の中へと忍ばせる。
――ひとつになりたい
焼けるような情熱を滾らせて、ひたすらその時を待っていた。

 からからと風が鳴り、砂粒が峰を下る。少年の心は乾いていた。枯れた岩場の隙間から青い空が覗く。それだけでよかった。他には何も要らなかった。記憶も何も要らなかった。吹き抜ける風。天からの光。そして、静かな胎動……。彼は疼いていた。
(感じる……)
唐突に彼は目覚めた。
(誰かがおれを呼んでいる……)
それは、もう随分と永いこと彼の中に染み込んでいた。もう永いこと自分の中にそれは有り、もう永いこと、それは自分を待っていた。
(おれは、何時からそれに気がついていたのだろう? それとも、たった今気づいたばかりなのだろうか……)
彼は耳を欹てた。
「聞こえる……」
少年はそっと指先で岩をなぞった。
「あの声が聞こえる……」

――きしゃれ きしゃれ 熱き魂を持つ者よ。きしゃれ きしゃれ わたしの中へ……

 「おまえは……誰だ?」
月の影の岩場からそっと顔を覗かせる。入り組んだ枝が絡み合う、異形の影のその向こう。そこに立つのは一人の乙女。響いて来るのは篠笛の音。翠の髪をだらりと垂らし、薄桃色の襦袢を纏った美しき者……。
「おまえは……」
鼓動が一つ、高波のように打った。その手を胸に押し当てて、彼は悟った。自分は生まれたての赤子のように何一つ纏わずそこにいる。風を感じ、言葉を聞き、色の香りに触れようとしている。器用な指先が心の機微を嗅ぎ分け、蕾のような唇が淋しく愛を求める。自分は個を持った一つの魂となるべく、今、初めて変化したのだ。頭上を渡る遥かな風の向こうで月が静かに満ちていた。

「ああ、おまえを感じる。こんなにも強く……こんなにもやさしく……」
少年は沸き立つ感情に動揺し、困惑していた。
「おまえに触れたい……。おまえと対話をし、そして、おまえをこの手で……」
彼はじっとその手を見つめた。そして、ゆっくりとその手を顔に近づけた。そして、甲に唇を当てる。
感覚があった。撫でると滑やかで不思議な感じがした。
「これが……人間の体……」
熱く何かが波打っていた。体の内側に閉じ込められた本性。それは紛れもない灼熱の溶岩だった。彼はこの山の地下深くに眠る大いなる力を支配する者。自然を司る精霊として生まれた。体の中で熱い情熱が迸る。彼は自分の甲を唇で吸った。そして、放してみると、周囲が微かに薄桃色に染まっていた。あの者が身に付けている衣と同じ色に……。

――ひとつになりたい

 (おまえの中に……)
彼は遥か頭上の月を見つめた。淡い光の中に浮かぶ自らの影。しかし、それは人であって人でない者。彼の心の動揺がその輪郭を歪め、再び本来の性質へ還ろうとしていた。
(触れたい……)
彼は願った。
(あの者と混ざり合って一つに……)
赤く燃えて溶けていく身体……。その中に突然ぽとりと手首が落ちた。その甲にはまだ、あの花のような桃色がくっきりと残っていた。あの者と同じその色が……。
(欲しい……)
沈んでいく頭の中に、まだ笛の音は聞こえていた。
(あの美しい人が欲しい……)

 それから、彼は昼も夜もずっと空ろな夢を見ていた。
――きしゃれ きしゃれ わたしの中へ……
再び、あの声が聞こえた。
――そなたのすべてを見せておくれ
薄桃色のその影を追って、少年は山を下った。季節はいつか春になり、異界は花で溢れていた。すべてがあの者と同じ薄桃色に満ちている。

 彼は岩場の影からそっと覗く。舞い散る花の中でその者は佇み、じっとこちらを見つめていた。
「待っていたよ、そなたを……」
その美しき乙女の者は花のようにひらひらと手招きした。
「姿をお見せ。愛しい者よ。月の影から出てきしゃれ……」
彼は固く目を閉じ、自分の中を駆け巡る熱い血潮を沈めようと努めた。
「さあ、何を迷っておるのだ? 恐れることはない。わたしはずっと待っていたのだから……」
「だけど、おれは……」
彼は僅かに後退した。
「きしゃれ……」
その者の手から花びらが舞った。その一枚が風に乗って少年の肩にやさしく降りた。彼はそっと心の形をした花びらに触れた。
「ああ……」
そうして微かにそれを唇に当てる。薄桃色の甘い香りが広がった。

――きしゃれ

 彼は岩場を離れ、その者の前に出た。白く整った肢体に、月の光が当たって輝いた。
「おお……。少年よ。そなたは何と美しい……」
女の手がそろりと彼の頬に触れた。それからゆっくり滑らせ、髪を何度も撫で付ける。周囲に霧が立ち込めた。
「おまえが欲しい……」
その手を絡めて彼が言った。
「おれを惑わすその妖艶な唇を……」
彼は自分の唇を女に重ねた。甘い蜜のような香りがした。闇の中に溶け合って、じっと互いを見つめ合う瞳……。吐息がふーっと靄のように流れ、絡みつく肢体。時を辿るように蔓草が這い上る……。痺れるような感覚と甘い囁き……。

「そなたが好きじゃ」
柔らかな人間の華奢な手が心地よい夢を運ぶ……。彼女がそこに触れる度、強く彼は感じた。自分の一番敏感な部分に猛々しいほどの力と気が注がれていく様を……。
「おお、麗しき少年よ、わたしの理想を叶える者よ」
その足元に、腰に絡みついて行く緑の蔓は、女の波立つ長い黒髪へと続いている。
「ああ……」
彼はその妖艶な蔓草の中へ自らの身を絡め、茨の棘に刺されつつも甘い喜びに震えていた。
「おまえが欲しい……」
燃え立つ熱い唇で乳首を吸い、その手で柔らかな心の襞を愛撫する。

 しっとりと濡れ細る蔓草が月の光に照らされて蜜の輝きを増していた。その節目からは小さな花芽が命を宿し、やがて膨らみ色づいた。
「美しいおまえのすべてが……」
沸き立つ湯気の白い煙に包まれて、女の纏っていた布を剥ぎ取った。
「おまえの中で一つに……」
足元に撓む布は花びらとなって散り、そこに現れた肢体に露の雫がうっすら光る。口元は微かに開いて楽の音を漏らした。

夢見しは太古の鼓動……
地を守り、育んで来た命……
熱き二つの魂はここに出会い
永遠の契りを交わさんとす

「そなたが好きじゃ……」

 赤い月の夜だった。青い緑の蔓草が少年の身体の隅々までも、その細胞の一つまで逃さぬようにと這いずった。女の頬が紅潮し、掴んだその手の間から指を絡め、首や胸や足首にまで巻きついて少年の自由を奪う。そして、その身体の内部にまで侵入した蔓の僕達はその生気を吸って輝いた。節目から溢れ出た粘液は蔓を伝い、節目に美しい赤い花を咲かせ、彼の情熱に触れて枯れて逝った……。蔓も葉も愛しい唇の赤い蕾も……朽ちて逝くしかないのだ。残酷な運命の悪戯に二人は噎び泣いた。

「いけない……」
少年はそっと半身を起こすとその者から離れようとした。が、縋るように女の手がその手首を掴む。境のなくなった彼と彼女の肉体をしっとりと月の雫が濡らす。
「愛している。だが、愛すれば愛するほど、おれは燃えて、おまえを枯らし、恋の炎でおまえも、世界も焼き尽くしてしまう……」
少年の苦悩が月の帆影を曇らせた。
「焼いて、焦がして、何もかも……おれはおまえの命さえ……」
「構わぬ」
二人はじっと見つめ合った。それから、彼女の手が少年の身体を引き寄せた。
「ああ……」
彼らは再び情熱の口付けを交わす。女の髪が蔓草に変わり、彼を放すまいとしっかり首に巻きついた。緑と、そこに滴る粘液と、朽ちて逝く植物……。赤い大地に身体を沈め、彼は赤ん坊のように女を抱いた。女はやさしくその背を摩ると、彼の求めるものを与え続けた。抱擁と快楽、そして……。

「…ああ……」
深く突き入れた瞬間、彼の意識は天への螺旋の段差を駆け上った。怠惰と興奮、そして幸福の極みがその瞳を濡らし、快感に酔わせた。
「おまえが好きだ……」
「わたしもじゃ」
女の髪が少年の喉に絡んで締め付けた。
「おれの美しき天女……」
薄く開いた瞳に滲む光……。
「愛しているよ、眩しい炎の少年よ」
半分枯れたその蔓の間から新たな蔓草が伸びて行く……。

「わたしの中へ入ってお眠り……。そして、おまえの若い命をわたしに……」
その手は枯れて枝となり、女の顔は偽りのそれに変わる。罅割れた顔の下に現れた顔……。それは紛れもない、男の歪んだ顔だった。
「愛してる……」
少年が言った。空ろな瞳に映るおぼろげな顔……。花と蔓草に覆われたおぞましい男……。しかし、少年はそれを見ても、まるで驚かなかった。
「おまえを愛している……」
少年はもう一度呟いた。罅割れていく空に罅割れた男の顔が映っている。しかし、彼は男の身体から伸びている蔓の先に触れて微笑んだ。その手を男の華奢な手が掴んで頬に当てる。
「ああ、愛しているとも……。愛しい坊や。今こそ一つになろうとも……。さあ、そなたの若い命玉をわたしにおくれ」
無数の蔓達が蠢いて、少年の中へと滑り込む。

「もう一度……」
少年が手を伸ばした。男は彼の身体を抱えると再び、美しい女の顔となり、その唇を吸い、舌を絡ませた。それから、そっとその髪を撫でつけながら、その耳元に囁いた。
「そなたは永遠にわたしのものじゃ……。わたしの中で溶けて、永遠に一つの命を紡ぐ魂として生きるのじゃ」
女の手がすっと彼の額に触れた。そこからすっと彼の中に差し入れて、彼の命玉を取り出した。
「うう……」
微かに彼が呻いた。彼女は少年を抱きしめた。
「これで一つに……」
少年が言った。
「そう。一つに……」

 掲げた命玉は淡くやさしい色合いをしていた。透き通る光の中に何色もの色が交錯している。純潔な魂の光……。女はその玉をうっとりと見つめ、顔に近づけるとそっと唇で触れ、舌を這わせた。それは滅多に出会うことのない極上の命を宿した尊さを湛えていた。
「わかっていたよ……」
女の傍らに横たわったまま目を閉じている少年が言った。
「知っていたんだ、初めから……おまえが……おれを欲しがった本当の訳を……」
「そなたは……それでよいのか?」
女が訊いた。その面妖は再び本性へと変わろうとしていた。
「ああ……それでも、おれは……おまえが…好きだ……。おれを食らえ。この身体が本性へと還り、おまえを枯らしてしまうその前に……」

 ぱらぱらと女の顔が砕け、その下の男の顔もまた萎びて行った。少年の身体は徐々に溶けて赤い液体となり、灼熱の溶岩となって冷たい土の下へと染み込んで行く……。再び彼が生命を得る、妖力を持ち、人間の姿へと変化出来るようになるには、一体どれくらいの年月が必要なのだろうかと男は思った。恐らくは遥かに気が遠くなるような年月が掛かるだろう。いや、もしかしたら、それは永遠に不可能かもしれない。生命の神秘は、人間に限ったものではない。彼ら妖の者においても同じだった。命玉を掲げ、半分男で半分女の醜い化け物に変わってしまった男は泣いた。

「そなたが好きじゃ……」
それはまるで少女のようにか細い声だった。
「火炎の者よ。そなたが……好きじゃ……」
彼女は枯れてかさかさとなってしまった手で、最後に残った少年の頬を撫でた。それもたちまち赤い溶岩に呑み込まれ、その手が共に溶けて行く……。
「好きじゃ……!」
残った片方の手で命玉を持ち、無くなりかけている彼の額の辺りに置いた。灼熱となった液体はそれもまた呑み込んで、どろどろとした彼の本性の中へと沈んだ。
「好きじゃ……」
乙女の手と蔓草がそのあとを追うように溶け、その美しい裸体ごと赤い液体へと沈んで行った……。空には赤い三日月が浮かび、地上に残ったそれもまた、赤く妖艶な輝きを残す月の形をしていた。